ブロスな日々

日記 日々雑感 ツーリングを扱ったホームページ「デスクトップツーリング」の管理人でもあります。

崇徳院2009年11月20日(金)

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすゑにあはむとぞおもふ

和歌は優雅な恋の秀歌であり 藤原定家も高く評価しています。
院自身和歌など芸術に理解のある人ですが こういう人は政治的に不遇な人が多く 
だからこそ芸術に熱心にならざるを得ないのかもしれません。

崇徳院は第七十五代天皇 父である鳥羽上皇と争い 保元の乱が起こるが
敗れて讃岐に流され 悲憤のうちに崩御(亡くなる)される

伝説では怒りの為 髭も爪も伸ばし ものも食べず 怒りの形相のまま亡くなったといわれます。
後の世にこの話が伝わると 人々は恐れ 特に上皇の敵方の貴族皇族は恐れおののき 崇徳院の霊を慰め鎮める為 粟田宮を建て たたりを避けようとしました。

院の寵愛が篤かった阿波の内待は 院の遺髪を貰いうけ 一塚を築き その霊を篤く弔った。

・・・・というお話です。

平安京には特にこのようなお話が多く 恨みをのんで死んだ人が 霊になってたたり それを鎮める為 神社を建てる話をよく聞きます。

そのたたりは強く 疫病 天変地異 事故 不慮の死など あらゆる災難が起こります。
でも案外 たたりのせいにして 民衆の不満を逸らしていたという部分もあったのかもしれません。

粟田宮は長い年月のうちに廃絶してしまい。
遺髪を納めた一塚だけが残りました。
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京の人もあまり知らないこの塚は 実は祇園の歌舞練場の裏側に 張り付くようにひっそりとあります。
崇徳院御廟とあります。

天皇のお墓は 特別なものであり「御廟」とは書かず 「御陵」が正しいのですが 崇徳天皇の御陵所は 亡くなられた讃岐の五色台白峰山にあり あちらが本家であり こちらが遺髪塚だからでありましょう。

京に帰るのが望みだった崇徳院が 遺髪だけでも戻れたことは せめてもの慰めだったでしょう。

貴族がたたりを恐れている姿は尋常ではなかったようです。

武士が政治や権力などの紛争を起こすと 最終的には殺し合いになりますが 貴族はけして相手を直接殺しません。
それは徹底していて 直接手を下さないばかりか 政敵を殺す命令も出しません。

それは殺生を嫌い たたりを恐れたからです。
ですから 大抵は遠島などの罪にしました。

それでも恨みを持って相手が死に 疫病が流行ったりすると 祠を建て神社を建て 位を与えたりして ひたすら鎮めようとします。

たたりを避けるために建てた神社は都のあちこちにあり 有名なものは御霊神社(早良親王)北野天満宮(菅原道真) など たたりがある神社は強い力があると信じられ 信仰を集めてきました。

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後の世 明治の世になると 明治天皇は改めて崇徳天皇の霊をお慰めする為
讃岐の白峰御陵から京都に分霊し 京都に白峰神宮を建てられました。
白峰神宮には淳仁天皇(奈良時代の人 道鏡のため淡路島に流された)もあわせておまつりされています。

京都はどこよりも長く日本の首都があり 武士の都市「幕府」があったときも
将軍は天皇の臣下であり 正式には天皇の居られる土地こそ 都であり続けたのです。

でも裏側ではどろどろした部分も多く 恨みは土地に残り 色々な伝説や因縁話を生みます。

それは地名になり 神社になり 都市の町割りや 行事 果ては日常生活にもその影を落とします。

歴史をしっているのと知らないのとでは ずいぶん違います。

百人一首を手がかりに 歴史散歩をしてみましょう。

Posted at 19:20 | 散歩 | この記事のURL | Clip!!

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2009年11月

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